恋人の日−バレンタインデーSS-

2.14 in BANGKOK(照彰&ケン『海辺のライムソーダ』)

 59階でエレベーターを降り、屋上のバーへと続く細い階段を上りきると、インカムをつけたウェイターのタイ人スタッフが、「ワイ」という、両手を合わせるタイ式の挨拶で出迎えてくれた。

 ホテルの最上階、61階にあるルーフトップバーは、昼の熱気の名残を感じさせないほど空気が冷たく、澄んでいる。

「きれいだね」

 手すりに掴まり、眼下に広がる宝石箱をぶちまけたようなバンコクの夜景に見とれながら、桂木照彰は背後の恋人にそう言った。

 照彰の後ろから階段を上ってきたケンは、スタッフにワイを返しながら、悪戯っぽい笑みを浮かべている。

「上まで上がったら、テルはきっと驚くよ」

 そう促されて、更に上へと続く階段を上った照彰は、目の前に開けた光景に、言葉もなく目を丸くした。

 夕闇にきらめくビル群の明かりが、360度、遮る物もなくどこまでも続いている。光の渦の中を縫うようにスカイトレインが走り、ミニチュアカーのような車が赤いテールランプを光らせながら、闇の中を流れていく。

 最上階だというのに高い壁も柵もなく、もちろん屋根もないルーフトップバーは、さながら宇宙船のようだった。

 バーだと聞いていたが、その半分はレストランになっていて、白いクロスの掛けられた席ではドレスアップした人々が押さえた声で談笑しながら食事を楽しんでいる。

 バーは数段高い場所にあり、丸い形のバーカウンターをぐるりと取り囲むように、外側に向けて席が配置されていた。外界と内部を仕切るのは腰の高さまでしかないアクリル板のみで、ここから見ると、遮るものなど何もないかのようにも見える。レストランもすごいが、あのバーカウンターで夜景を眺めながらカクテルを飲んだら、さぞ気持ちがいいだろう。

「気に入った?」

 驚きのあまり呆けている照彰の肩に手を置いて、ケンが嬉しそうに聞いた。

「・・・・・・すごい」

 興奮しながらそう呟くと、ケンは照彰の腰にするりと手を伸ばした。そのまま腰を抱かれて、レストランで一番夜景が綺麗に見える席にエスコートされる。

「特別な日に、絶対にテルと来ようと思ってたんだ」

 白いクロスのかかった席に落ち着くと、ケンは穏やかな笑顔でそう言った。

 特別な日と言っても何かの記念日というわけではなく、今日はただのバレンタインデーなのだが、ケンはこういうイベントごとを決して外さない。

 照彰とケンが出会って今年で3年になるというのに、付き合い始めた頃と変わらずロマンチックなデートを計画してくれるケンに、照彰の心はふわりと温かくなった。

「ありがとう。嬉しい」

 照れながら言うと、ケンは愛おしげに目を細め、手を伸ばして照彰の頬をそっと撫でた。

 甘いその仕草に、胸がトクトクと音を立て始める。だが、内心の気持ちとは裏腹に、照彰はそっとケンの手を外して俯いた。

「ケン、人に見られるから」

 ここは、いつも二人が暮らしているホアヒンのホテルではない。いくらゲイカップルに寛容な国だとはいえ、公衆の面前で、しかも旅行者の多い場所でいちゃつくのは、照彰にはどうしても抵抗があった。

 咎めるような響きを持った照彰の言葉に、ケンは「分かってるよ」と目を細めて笑った。言ってしまってから、少し冷たかっただろうかと思う。だが、ケンのほうは別段気にしている様子もなさそうで、照彰はホッと肩の力を抜いた。

 ウェイターを呼んで今日のお勧めなどを聞き、注文を済ませたところで、ケンの携帯に着信があった。相手の名前を確認し、ケンは少しだけ困った顔で「ちょっと、ごめん」と言って席を立つ。きっと、仕事の電話なのだろう。

 電話で話しながら、さっき上がってきた階段の方へ歩いていくケンを、照彰はぼんやりと目で追った。

 ブルーの爽やかなシャツに紺のジャケットを羽織り、カジュアルなホワイトデニムを履いているケンは、どことなく一般人とは違うオーラを纏っていて、男女問わず人の目を引く。

 ほどよく筋肉の付いたバランスのいい体。穏やかで優しい人柄がにじみ出ている、整った甘い顔立ち。

 改めて、ケンは自分には勿体ないくらい、いい男だと思う。

 本当に、何故ケンは、自分のようなどちらかといえば冴えないタイプを相手にしてくれているのだろうか。我がことながら、時々照彰はそれが不思議でたまらなくなる。

 そんなことを考えていると、電話を切ったケンに、アジア系の青年が話しかけるのが見えた。整ったその顔立ちは、テレビでよく目にする若手の歌手だ。彼が甘えるようにケンの腕に腕を絡めるのを見て、照彰は動揺し、瞳を揺らした。

 こういうことはしょっちゅうあるのだが、何度経験しても慣れることがない。外見だけ見ても相手の方が数段上なのに、自分が勝てるはずがないというネガティブな思考に陥ってしまうのだ。

 彼も、ケンのことが好きなのだろうか。若くて、歌手としての才能も人気もあって、顔立ちは文句なく整っている・・・・・・そんな相手に好意を向けられて、ケンはどう思うのだろうか。

 浮気を疑っているわけではない。けれど、100%保証された想いなどどこにもないことを、照彰はよく分かっていた。今日好きだと言ってくれていたとしても、人の気持ちは本当にすぐに、残酷なほどあっさりと変わるのだ。

 照彰はきゅっと唇を引き結び、ケンと青年から視線を逸らして、眼下に広がる夜景に目を凝らした。

『恋人と来てるから、悪いけど』

 どのくらい経ったのか、しばらくして、風に乗ってケンがそう言う声が聞こえた。はっとしてそちらを見ると、ケンが青年の腕をやんわりと外すのが見える。

 不満そうな顔の青年と目が合いそうになって、照彰は慌てて視線を再び夜景へと向けた。自分でも現金だと思うのだが、たったそれだけのことで不安がすうっと消えていくのが分かった。代わりに、ケンを好きだという思いがじわりと胸にこみ上げてくる。と同時に、人に見られたくないという理由でさっきケンの手を払ってしまった自分の行動を、照彰は後悔した。

 半分以上観光客のバーで、男同士で付き合っていると後ろ指をさされたところで、もう二度と会うことのない人たちなのだ。そんなことを気にして、恋人に悲しい思いをさせるのはばかげている。今夜は、人目を気にしたりしないで、思い切り甘い夜を過ごそう。一人でそんなことを思っていると、ケンが戻ってきた気配があった。

「一人にしてごめん」

 首を振りながらケンの方に視線を向けた照彰は、次の瞬間、驚きに目を見開いた。

 ケンが薔薇の花束を手にしていたのだ。

 差し出されてそれを受け取り、照彰は目を瞬かせる。

「・・・・・・俺に?」

 思わずそう聞くと、ケンは向かいの席に座り、おかしそうに笑った。

「他に誰がいるの?」

 聞き返されて、照彰は顔を赤くした。

 日本のバレンタインデーには女性が意中の人にチョコレートを贈るが、ここタイでは、男が恋人に薔薇の花束を贈る習慣があるのだそうだ。バレンタインデーに向けて薔薇の値段が酷いことになるのだと、一緒に働いているカフェスタッフのジョーが嘆いていたのを照彰は思い出した。

 薔薇の色や贈る本数に意味があるというのも、ジョーの妻であるソムから聞いたので、知っている。思わず花束を覗き込み、本数を数えて、照彰は今度こそ真っ赤になった。

 薔薇は、11本。

 記憶に間違いがなければ、それは「君は唯一無二の宝物」という意味だ。感動のあまり言葉が出てこずに、照彰は潤んだ目をケンに向けた。

「ありがとう・・・・・・」

 涙混じりに言うと、ケンは少しだけ照れくさそうな笑顔を見せて、運ばれてきたシャンパンをグラスに注いだ。

「乾杯しようか」

 そう言われ、グラスを差し出される。

 照彰はそれを受け取ってケンのグラスと合わせ、細かな泡の立つシャンパンを一口、口に含んだ。

 ふいに、グラスの中でからりと音がして、照彰は首を傾げる。

 何だろうと思いながらグラスを頭上にかざした照彰は、その中に見えた、銀色の丸い輪のようなものに、今度こそ言葉を失った。

 ケンを見ると、ケンは穏やかな笑顔を浮かべて照彰を見ている。

「もらってくれる?」

 穏やかなトーンでケンが聞く。返事をしようとして上手く出来ず、照彰はただ必死に頷いた。涙が溢れて、止められない。こんなタイミングで、こんなプレゼントを渡されるなんて、映画の中だけの出来事かと思っていた。

「・・・・・・気障」

 照れ隠しの笑いを浮かべながら小さく呟くと、ケンは「ひどいな」と心外そうな声を出した。照彰の涙を拭おうと手を伸ばし、ついさっき「人目があるから」と拒まれたことを思い出したのか、困ったような顔でその手を宙で止める。

「うそだよ。・・・・・・死ぬほど嬉しい」

 照彰は、そう言いながら微笑むと、思い切ってケンの手を取り、甘えるように頬に当てた。それから、涙に濡れた瞳でケンをじっと見つめる。

 これから先、ケンの気持ちが自分から離れることがあったとしても、自分はずっとケンを好きで居続けるのだろう。そこまで好きだと思える人に出会えるとは、自分はなんて幸せ者なのだろう。そう思いながら、照彰は身を乗り出して、ケンの唇に触れるだけのキスをした。

 普段からは考えられない照彰の大胆な行動に、ケンが目を見開いている。

「大好きだよ」

 そう囁くと、ケンの表情にゆっくりと幸せそうな色が広がった。

 ケンが自分に向けてくれる愛は、いつだって深くて大きい。一生をかけて、それに負けない愛を返したいと、照彰はケンの笑顔を見つめながら思った。



2.14 in SHAMS JAMIL(仁&ユクセル『千の夜とジンの鍵』)

「あっ、流れ星」

 寒そうにスンと鼻を啜って、仁が星の瞬く夜空を指さす。

「どこに?」

「だから、流れ星だってば。一瞬で流れちゃったよ」

 そう言うと、仁は「もう一度流れないかな」と白い息を吐き出しながら呟いた。

 何故そんなものを見たがるのかと、ユクセルは満天の星空を見上げながら、形のいい眉を顰めた。月もなく、人工の明かりもない砂漠の夜、頭上では今にも落ちてきそうな程の星が銀色に輝いている。

「流れ星は、シャムスジャミールでは不吉の前兆と呼ばれている。人の命を連れて行く星だ。俺は見たくない」

 ユクセルが無愛想に言うと、仁は「えー」と不満そうに唇を尖らせる。

「日本では、流れきる前に願い事をすると、それが叶うって言われてるよ。どうせなら、いい方を信じたいと思わない?」

 ユクセルの腕にすっぽりとくるまれた格好で、仁は首だけを上向けて、同意を求めるようにユクセルを見上げてくる。

 そう簡単な事ではないとユクセルは思うが、そう言うと仁をがっかりさせてしまいそうで、首を竦め、黙っていることにした。今日は特別な日なのだから、些細なことでケンカをしたくない。それは仁も同じだったのか、流れ星についてそれ以上食い下がることもなく、仁は夜空を見上げている。

 しばらく黙って二人で星を見ていると、ふいに、腕の中で仁がぶるっと身震いした。

「寒いか?」

「うん、少し」

 仁が頷いたので、ユクセルは仁をくるんでいた毛布をかき合わせ、もう少し密着するように後ろから抱き込んでやった。

「へへ、あったかい」

 仁が嬉しそうにそう言って、ユクセルの胸に身体を預けてくる。

「チョコ、食べたい」

 ねだられて、ユクセルは昼間ボックス買いしてきたチョコレートの箱から銀色の包み紙を一つ取り出し、それを剥いて仁の口元へ運んでやった。

 ほぼイスラム圏にしか展開していないブランドのチョコレートは仁のお気に入りで、ここ数年、バレンタインデーには、このブランドの大きな箱にぎっしりと詰まったチョコレートを買ってくることが暗黙の取り決めのようになっていた。

 バレンタインデーの夜は砂漠で過ごすというのも、仁の希望だ。

 世の中がバレンタインデーとして盛り上がる2月14日。シャムスジャミールはイスラム教国だが、この日は「恋人の日」と呼ばれ、恋人同士が愛を確かめ合う日として定着している。

 男だから、女だからというのは関係なく、プレゼントを贈り合ったりデートしたりするのが一般的ではあるが、ユクセルは毎年、この日は「仁の願いを全て叶えて甘やかす日」と決めていた。

 とはいえ、「箱一杯のチョコレートを食べたい」とか、「砂漠のど真ん中でキャンプしたい」という仁の願い事など、可愛いものである。

 今は妹の旦那となった親友のアリーが、「今年はダイヤの指輪以外は受け付けないって言われた」と肩を落としていたのに比べれば、ほほえましいほどのささやかな願いばかりだ。

 ユクセルはたき火に木をくべて弱くなった火を熾すと、また箱に手を伸ばし、親鳥のように仁の口元にチョコレートを運んだ。

「それで、流れ星に何を願うつもりなんだ」

 聞くと、仁は何故か固まって、リスのように口の中に頬張っていたチョコレートを、ごくんと飲み込む。そのまま黙っているので、ユクセルは仁の顔を横から覗き込んだ。

「き、聞かないでよ」

 ほんのりと頬を染めた仁が、言いにくそうにそう呟く。

「どうして? 星に願わなければならないようなことが何かあるのか?」

 何となく思い当たる節がないでもないのだが、わざと心配そうな声で言ってやると、仁は恨めしそうな顔でユクセルを振り仰ぐ。

 しばらくそうした後で、仁は何故かしゅんと肩を落としてしまった。

「仁?」

 予想していた反応と違うことに戸惑っていると、仁はやがて思い詰めたような顔でユクセルに預けていた身体を起こし、正面に向き直った。

「・・・・・・ユクセルが、僕のこと、嫌いになりませんように、ってお願いしようと思って」

 そう言って、不安そうに瞳を揺らす。

 何故そんな思考に至ったのか理解できず、ユクセルは眉を寄せる。

「どういうことだ?」

 何か、仁を不安にさせるようなことをしただろうか。気落ちしている様子の仁にいてもたってもいられなくなり、ユクセルはその薄い肩を掴んだ。

「どうして急にそんなことを言う? 俺が何かしたのか?」

 畳みかけるように聞くと、仁は「そうじゃない」と首を振った。

「そうじゃないけど・・・・・・」

 言いかけて、迷うように一度口をつぐむ。それから、仁はおずおずと視線を上げた。

「何かあった訳じゃないけど、でも、考えてみたら、こうして一緒に『恋人の日』を過ごすの、もう何回目になるんだろう、って思ったんだ」

 歯切れの悪い言葉に、ユクセルは眉を顰めた。

「それが?」

「分かるでしょう? 時々、不安になるんだ。段々年を取って、もう若くはない年齢になって、いつまで好きでいてもらえるのかな、って・・・・・・」

 口ごもりながらそう言われる。ユクセルはまじまじと仁を見つめ、それから脱力した。

「・・・・・・何だ、そんなことか」

 思いっきり呆れた声を出すと、仁が年甲斐もなく「そんなことって言わないでよ」とふくれっ面になる。

 ユクセルは改めて、自分の腕の中に収まっている仁を見つめた。

 出会って一体何年が経ったのだろう。

 夢見がちでキラキラ目を輝かせていた少年は青年になり、そして、今はもう青年と言える年も通り過ぎてしまった。

 お互い、大分年を取ったと思う。

 それでも、ユクセルはあの頃と全く同じくらい…いや、それよりももっと深い愛情を仁に感じている。

 仁のいない人生など考えも付かない。

 仁と出会って、自分の人生は鮮やかに色づいた。もし彼を失うことがあれば、その色は消え失せ、残りの人生は灰色に埋め尽くされてしまうだろう。

 それほど、ユクセルにとって仁はかけがえのない存在だった。だから、若くなくなったからと言って、愛を失うかもしれないと怯える必要などこれっぽっちもないのだ。

「愛しているよ。年を取って皺だらけになっても、チョコレートの食べ過ぎで腹が出ても、この気持ちは変わらないと自信を持って言える。だから、変な心配をするな」

「は、腹はまだ出ていませんっ」

 仁が真っ赤になって反論するのに笑って、ユクセルは不意に盗むようにその唇をついばんだ。

 肩を抱いて自分の方へと向き直らせ、親指で唇を思わせぶりになぞる。

 仁は潤んだ瞳でユクセルを上目遣いに見上げ、しばらくされるがままになっていたが、やがて誘うようにそっとユクセルの指をかんだ。

 そっと柔らかく口づけると、腕の中で、仁が微かに身じろぎする。

 仁の温もり。仁の匂い。

 鼻先を首筋に押し当て、深く息を吸い込む。くすぐったいのか、仁は小さく笑って身を捩った。

 その体を離さずに、砂漠の砂の上に敷いたカーペットに押し倒す。

「……ユクセル?」

 戸惑う仁に覆い被さると、ユクセルは額にキスし、首から鎖骨へと手のひらを滑らせた。

 ふわりと仁の身体に熱が灯る。

 仁はしばらく視線を泳がせた後、ユクセルの首に甘えるように腕を絡め、顔を赤らめながらキスをねだってきた。

 ねだられるまま、ユクセルは啄むように、続けて貪るように、あまいキスを繰り返した。

「僕もね、ユクセルのこと、愛してるよ。出会った頃よりも、もっと、好き」

 照れながらの仁の言葉に、ユクセルの心臓は跳ねた。体に熱が灯る。

 それなのに、仁は困ったような顔で「これ以上はダメ」と起き上がろうとする。

「何故?」

 頑張って腕から抜け出そうとする仁を押さえつけ、ユクセルは意地悪く聞いた。

「俺のことを、愛してるって言ったのは嘘なのか?」

 そう言ってからその先の言葉を塞ぐように舌を絡めるキスをすると、仁は合間に「ずるい」と抗議してきた。

「嘘じゃないよ。でも、こ、こんな、何も遮るものがない外で、なんて…」

 ユクセルは困ったように言い募る仁の唇に指を押し当てると、肩にかけていた毛布を頭から被った。

 視界が闇に包まれる。

「これなら、誰にも見られない」

 見え見えの嘘を口にして、捕らえた仁の服に手を忍ばせる。

 仁はしばらくぐずついていたが、その体はやがてしっとりと熱を帯び始めた。

 たき火の爆ぜる音と風の音しかしない砂漠の闇に、仁の押し殺した声が艶めかしく響く。

 まるで、世界に二人きり取り残されたようだと思いながら、ユクセルは仁の身体に手のひらを這わせた。

 腕の中の温もりがただただ愛おしい。

 どう言えば仁にこの気持ちが伝わるのだろうと思いながら顔を上げた時、地平線に吸い込まれるように星が流れるのが見えた。

 もしも、あの星が不吉な前兆などではなく、願いを叶えてくれる星なのなら、どうか仁の不安を取り除いて欲しい。

 咄嗟にそんなことを思いながら、ユクセルは温かな身体を強く抱き締めた。



 2.15 in SCHWARZBURG(継太&コンラート『王子と野ばらSS』その後)

 腕の中の小さな身体が微かに身じろぐ気配に、コンラートはふと目を覚ました。

 夜明けが近いのか、外も、部屋の中も、うっすらと明るくなってきている。

 昨夜、ウィスキーボンボンで酔った継太と何時間も抱き合った後、継太の寝顔を見ているうちにいつの間にか自分も寝入ってしまっていたらしい。

しかも、どうやら熟睡していたようだ。

誰かの隣で熟睡したのは初めてだと思いながら、コンラートは自分の腕の中で寝息を立てている継太の顔をじっと見つめた。

 昨夜さんざん泣かせたせいか、目元が少しだけ腫れている。

 あどけないその寝顔には、昨夜自分に翻弄されて見せた、艶めいた色はどこにもなかった。

 継太の無防備な顔を見ているうちに、愛おしさがこみ上げてきて、コンラートは乾いた目尻に軽くキスを落とした。

 それで目を覚ましたのか、継太がぴくりと肩を揺らし、うっすらと目を開ける。

 継太はぼんやりとコンラートを見上げ、「おはようございます」と眠そうな声を出した。

「まだ朝じゃない」

 コンラートはふっと笑むと、ベッドに潜り込んで、継太の裸の肩が冷えないように上掛けを引き上げた。

 そっと胸元に抱き寄せると、無意識なのか、継太は甘えるように頭を擦りつけてくる。

 何度かそれを繰り返し、継太は落ち着く位置を見付けたらしい。すうっと落ちるように、再び寝入ってしまった。

 温もりを腕の中に閉じ込めたまま、コンラートは継太の髪の毛に顔を埋め、つむじにキスを落とす。

 愛おしい。

 彼を傷つけようとする物全てから、守ってやりたい。そんな思いがこみ上げてきて、コンラートの胸を切なくさせる。

 ただ寄り添って眠るだけのことがこんなに幸せなのだということを、コンラートは知らなかった。

 甘ったるい自分の思考にふと我に返り、コンラートは苦笑した。継太に会う前の自分だったら、「馬鹿馬鹿しい」と鼻で笑うような感情だ。

 だが今は、それもいいと思っている自分がいる。

 コンラートは継太を腕に抱いたまま、そっと目を閉じた。継太の心臓の音を聞いているうちに安らいだ気持ちになり、再びとろとろと眠りの中に引き込まれていく。

 愛はこんなにも穏やかで優しい物なのだと、コンラートは夢うつつの中で思った。

(おわり)

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